まなちゃんのせいかつ

将来の夢は幸せになること。自分の気持ちに素直になって、私は私らしく女性という人生を謳歌していきたい。

傷跡と生きるvol.01

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私の身体に大きな傷跡があることを知っている人もいるし、知らない人もいる。

もしかしたら気になっていたけど聞けないでいる人もいるかもしれない。

 

無性に書きたくなった。

交通事故に遭い、5年半に渡り裁判を行った。その終わりが漸く見えてきたこのタイミングで、覚えている範囲のことを全て書こうと思う。

 

単純に読み物として楽しんでもらえたら。

 

裁判の最大の争点は、その傷を負ったことにより経済的被害を受けているかどうか。

逸失利益と呼ばれるものだ。

 

ー話は遡り、2014年夏。

 

私が大学生になって初めての夏、(確か夏休み初日だった記憶がある)私は交通事故に遭った。

 

お昼前、自転車を乗っていたら車と正面衝突した。
らしい。

 

らしいと表現したのは、実は事故当時のことはあまりよく覚えていないからだ。

 

車のフロントガラスは蜘蛛の巣のように割れ、自転車は変な形に曲がり、血だらけの私はICU(集中治療室)に救急車で運ばれた。

 

顔から胸元までザックリパックリ。写真は割愛する。ショッキングすぎる。

 

ここであえて不謹慎な発言をすると、せっかく救急車に乗る(しかも怪我人として)という貴重な経験ができたのに、記憶にないというのが残念でならない。

 

救急隊の方の話によると「頭を強く打っており、意識が混濁していた」とのこと。いや、怖い。

 

救急車で運ばれているとき、お母さんに救急隊の方が電話をしてくれたらしい。

 

私の携帯電話からの着信を受けたお母さんは、電話越しに聞こえる救急車のサイレンの音を聞いて「あぁ、近くで救急車が通っているんだな」と思ったそうだ。

 

それほど、非現実的なことだった。

 

近くに通ったはずのサイレンがいつまでも響いていたのだから、何事かと思ったはずである。

 

「娘さんが、交通事故にあわれました」

 

「え?」

 

「頭を強打しており、意識が混濁しています」

 

「命に別状はないんですか?」

 

「僕たちからは何も言えません」

 

以上の会話がなされたそうだ。

 

どれほど怖かっただろう、想像に難くない。

 

全身全霊の「ご心配とご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」だ。

 

お陰様でこの通りピンピンと生きております。

 

さて、私の次の記憶がしっかりとあるのは病院だった。

 

「目が覚めたら、白い天井に、薬品の匂い」というまさに小説にありそうな状況。

 

救急車から担架で病院に運ばれながら看護師さんに「生きててよかったね。フロントガラスにぶつかった後、ボンネットに乗り上げたから生きてたんだよ。そのまま吹っ飛ばされていたら死んでたよ」と言われた。

 

「死んでたよ」という言葉を「へぇ」と、なんともあっさりとした感情で受け入れ、また記憶がなくなる。

 

そして次の記憶が、集中治療室の手術台の上。

 

なんだかぼんやりと意識が戻ってきて、私の頭の上で会話が繰り広げられているのが聞こえた。

 

「そうそうそんな感じ」

「それで大丈夫」

 

……

 

目を開けると女性のお医者さんと目が合う。

 

「あ、起きた?あなた事故にあったのよ。ちょっと気持ち悪いと思うけど動かないでね」

 

手術なう。だ。

 

手術なう!?

 

部分麻酔で顔から首元にできたパックリ割れをせっせと縫ってくれていた。

 

いっそのこと全身麻酔でお願いしたかった。

それか、ここの記憶もなくなっていてほしかった。

 

恐ろしいのは、こんな状況であるにも関わらず一番に思ったことが「お気に入りのTシャツが」である。

 

集中治療室の手術台の上で手術なう、の時に思うことではない。

 

さらに悲しいのが、そのTシャツはユニクロの数百円のTシャツだということだ。(数百円のTシャツをお気に入り認定している私のファッションセンスは忘れてほしい)

 

白のTシャツは血に染まり、手術のためにハサミで切られた。

 

病院で血みどろのTシャツを受け取り帰宅した母と妹が写真を撮ってくれていた。ショッキングフォトなので割愛させていただくが、それにしてもなんとも愉快な家族だ。

 

もちろん、集中治療室で命に別状はないと断言された後のことである。どれほどドキドキさせたのかと思うと本当に申し訳ない。

 

そんな「Tシャツが」という私の貧乏くさい思考を遮ったのは看護師さんが発した「足も消毒するね」という言葉だった。

 

自転車と車が正面衝突して吹っ飛ばされて首と顔がパックリだけで済むはずはなかった。

(骨が折れていなかったのは私の日頃の行いだろう)

 

右足のふくらはぎがえぐれていた。

 

なぜ、なぜ全身麻酔にしてくれなかったのだ。

やがて訪れるはずの消毒の痛みを想像して、半ばパニックの私。

 

ただこういう時も、人に元来備わっているプライドというものが作動するようで、「別になんでもありません」という表情をした(つもり)。

 

次に聞こえたのが

 

「あぁ、傷口に砂がいっぱい入ってるね」

 

「ちょっと歯ブラシ取ってくれる?」

 

!?

 

なぜ、ここで記憶が戻ったのか。自分を呪った。

それからのことは、私の記憶からは抹殺した。

 

これも生きていくための防衛反応である。

 

その日から3日間は集中治療室にいた。

薬のせいなのか、怪我の衝撃なのかは不明だが、ほぼ眠っていた。

 

時折、救急車で運び込まれてくる音が聞こえる。

私はもちろん起き上がることもできず、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 

何度か吐いた。

 

4日目からは一般病棟に移動となった。

ベッドごと移動。ちょっとお姫様気分だ。

 

途中で一般病棟用のベッドに移してもらった。

 

あまりのベッドの柔らかさの違いに驚いた。

一般病棟のベッドは、とても固い。

 

やはり救命の患者さんはある意味でも”特別扱い”なのである。

 

このあたりから漸く「暇だ」という感情を抱くようになった。

 

そしてもう一つの感情が「お風呂に入りたい」だ。

8月。真夏である。

 

この時点で既に4日間お風呂に入っていない。

汚い話で申し訳ないが、結局入院していた10日間はお風呂に入ることができなかった。

 

お風呂に入れないということはわかったから、とにかく髪を洗いたかった。

 

毛先に血がこびりついていたのだ。

気になって仕方がない。

 

5日目の朝に看護師さんが「今日シャンプーしようね」と言ってくれた。

まさに、天使の囁きであった。

 

それからはもうシャンプーのことしか考えていなかった。

 

頭皮に温かいお湯がかけられ、良い香りのするシャンプーでシャワシャワと洗ってもらえる

 

美容院では気になってもなかなか言えない「気になるところはありませんか?」という問いかけにも今日は正直に答えよう。「毛先の血が気になります」と。

 

シャワシャワシャワシャワシャワ

 

妄想である。

 

しかし、昼になっても夕方になっても一向に「シャンプーしましょう」という声がかからない。

 

看護師さんも忙しいし、声をかけるのは迷惑かな

 

それでなくとも、朝ごはんの時に出てくる牛乳が飲めないから飲むヨーグルトに変えてほしいとお願いしたにも関わらず、お昼まで寝て朝ごはんを食べないという昭和の親父もビックリみたいな我儘ぶり発揮していたのだ。

 

が、そんな状況でも私は今の私と変わりはなく、「シャンプーいつですか!?」と食い気味に聞いた。

 

「あ

 

その時の看護師さんの「忘れてた」という顔は、多分一生忘れない。

 

あなたが毎晩面倒臭がっているお風呂やシャンプー。

当時の私にとっては、妄想だけで半日過ごせるほどの存在だったのだ。

 

それを「忘れてた」とは。何事だ。

 

まぁ良い。今からやってもらえるのだから。

そう思っていた時に看護師さんから発せられた衝撃的な一言。

 

「あなた頭打ってるでしょう。だからシャンプーして良いかどうか、先生に確認してからじゃないとダメなの。で、ごめんね、先生がもう帰っちゃったから

 

絶句。

 

仕方がない。看護師さんも忙しい。こんな車に吹っ飛ばされた奴の一人だけに構ってはいられないのだ。

 

「じゃあ、明日聞いて大丈夫だったらお願いします^^」

 

震える声で言う。

 

「あのね今日金曜日でしょう。次先生が来るのは月曜日なの。だからあと2日は我慢してくれるかな?」

 

それは無理だ。

 

「嫌です」

 

今改めて考えるとあまりにも幼稚な抵抗で笑えるが、当時は必至だ。一世一代の大シャンプーなのだ。

 

「いやでも」看護師さんも困ってしまう。

 

しかしあまりにも私が抵抗し、緊迫した表情をしていたからなのか、なぜか次の日にはシャンプーしてもらえた。

 

病院では、喚いたらシャンプーしてもらえるということを学んだ。

 

どんな美容院でしてもらうシャンプーよりも、気持ちよかった。

しかし人間の欲求とは恐ろしいもので、あれほどしてもらいたかったシャンプーをしてもらえると、次は体も洗ってほしいと思うのだ。

 

言うのはタダだ。お願いしてみた。

 

「そんな傷だらけの体、洗えるわけないでしょ。抜糸もしてないのに」

 

ごもっともでした。

 

シャンプーをしてもらえて、少しご機嫌バロメーターが上がった私を待ち受けていたのは、抜糸だ。

 

開いた傷は針と糸で縫い合わせて、そろそろ皮膚がくっついたかなというタイミングで糸を抜く。

医療とは案外アナログなんだなと。

 

その頃にはもう車椅子で移動できるまでに回復していた。人間の治癒力とは凄まじい。

 

抜糸は外来と同じ治療室で行われるため、一般の患者さんと同じように外来の待合室で待っていた。

 

いくら回復したとはいえ、包帯巻き巻きで身体中傷だらけのボロボロな車椅子の女である。

 

ちなみに全身を強打している。

 

黒色緑色黄色

 

何の色か?肌の色だ。内出血が激しいと人間の体は変な色になる。どんどん変わっていく自分の体の色が不思議だった。

 

抜糸の時点では緑色の段階だった。シュレックかよと笑った。冗談ではない。本当にシュレックのように体が真緑だったのだ。

 

傷だらけのシュレック

 

その場に居合わせた一般外来の患者さんには悪いことをしたなと思っている。

 

しかしここでも入院患者は”VIP扱い”らしく、優先的に治療室に入れてもらえた。

 

ここで一つ残念なお知らせがある。

 

抜糸の詳細も、記憶からは抹殺させていただいている。

それはそれはもう、酷いものだった。

 

抜糸直後は、首を動かすと傷がぱっかりと開いてしまいそうで怖くて、頷いたり傾げたりすることができなかった。お見舞いに来てくれた友人に爆笑されたのが印象に残っている。

 

「傷が開きそうでwww横向けないから前向いて喋るねwww

 

全く笑い事ではない。

 

抜糸の次は、退院というミッションだ。

 

糸も抜け、感染症抗生物質の投与も終わり、ご飯も食べられるようになり、後は歩けるようになれば退院できるという噂を耳にした。

 

「もう元気です。歩けます」

 

大嘘だ。

タツムリなのかな?というスピードでしかも手すりがなければ歩けないくせに、ただ早く退院したいがために強がった。

 

この強がりの発言が5年半後の裁判にて不利に働くとははつゆ知らず、駄々をこねまくった結果、3日以上早く退院できた。

なんでも言ってみるものだということを学んだ。

 

つづく。